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物が捨てられない話


数時間前まで綺麗であった、実家の我が部屋は物で溢れかえっている。お片付けの神(母)が組み上げた完璧な世界に僕のような人間が立ち入る資格はないのである。部屋は、まるで四次元空間から転送されてきたとしか思えないほどの物に溢れかえっていた。この中から新居に送る物を選出せねばならぬのである。僕はため息をつくが、そんなものでは物はビクともしない。まるでその場所に存在し続けるかのような、何食わぬ顔で(もちろん物には顔はついていない。当然である。なめているのか)鎮座しているのだ。鎮座ドープネスだ。

強烈な父親の教育の元で育ってきた僕は、物を捨てることがとても苦手だ。一度所有したものは当然のこと、そこらの適当なものにも何か価値を見出して、保持し続ける。捨てる理由は全く思いつかないが、捨てずに取っておく理由は無限に思いつくのだ。ゴミすらも捨てられないというわけではない。癖の範囲で収まっている。ただ僕よりも酷い父は「目の前の素敵な風景」を「捨てる」ことを嫌がり、常にカメラを構えている。後から見返したり、良いカメラで撮ろうとはしない。所有することが目的なのだ。僕はこれをパパ(父)ラッチと呼んでいる。

夫婦というものはバランスが取れているもので、父は捨てるのが下手だが母は捨てるのが上手い。母のフィルタが存在しているという甘えからだろうか、父、僕そして弟も思う存分物を所有している。1:3となりバランスは崩壊。基本的に実家(父と僕と弟の部屋のみ)は物で溢れかえっている。

映画オタクの僕が所有しているものの多くは映画DVDや関連書籍などである。過去には推理小説に没頭していた時期もあり、その時に買い溜めた文庫本なども含めると所有書籍は3桁にもなる。しかもこれらを捨てられないのが痛い。一度読めば十分な本も保持し続けている。ちなみにその本の所有理由は「なんだか並べた時に綺麗だから」である。内容はあまり関係ない。

さて、僕がなぜせっかくの盆休みを潰して物に埋もれているかというと、これまでよりも広めの新居に移るため、実家に送り続けていた大量の所有物を整理、そして新居へ送るために梱包せねばならぬのだ。しかし実は明日には実家を出るはずだが、まだ整理は完了していない。にも関わらず久しぶりにブログを更新しているのには退っ引きならない訳がある。

手紙が捨てられないのだ。

ただでさえ物を捨てられない僕が、普通の人も捨てづらい手紙を捨てられるはずがない。手紙には心がこもっている。たとえ送り主のことを嫌いになっていたとしても、その当時の気持ちとか心とかは手紙に残り続けるのだ。手紙に非はない。おそらく中学生時代に頂いた手紙から直近の結構読み返すのもキツい手紙も全て保存してある。先の文章で「おそらく」と書いたのは、赤面必須のとにかくヤバい手紙を入れた箱があるのだが、それを確認することができないからである。箱は目の前にあるのだが、この内容を正視することはできない。数秒開けて中に、新しい手紙を入れることは可能だとしても内容を確認することは闇の力が働くため不可能なのだ。無理なんだ。

手紙ボックスの歴史は長い。高校三年生まで実家に住んでいた僕は、集めた手紙を現代独和辞典の中に挿入していた。本棚の中で最もつまらなそうな本という不名誉な理由だが、独和辞典は大活躍をした。デスノートかぶれだった僕は独和辞典が収められている一番つまらなそうな本棚の扉にシャーペンの芯を挟んでおいたのだが、その芯が折れていることはなかった。

大学へ進学し実家を離れる際、さすがに現代独和辞典を捨てるわけにはいかず、ごくありふれた饅頭が入っているような箱に入れて一人暮らしの部屋に持ち込んだ。意を決して捨てるか焼くかしようと思ったこともあったが、なんとか6年間を耐え抜いた。

そして2017年4月。僕は就職をしたが、新居が決定するのはお盆前ということが発覚した。その間はホテルを転々とすることになるのだが、まさか手紙ボックスを持ち歩くわけには行かなかった。ゼウスはパンドラの箱をスーツケースに入れて持ち運んだか?持ち運んでないだろ?そういうことだ。やむなく実家におくことにしたのが2017年3月。本がお片づけの神によって整理されており、独和辞典の場所も変更されていた。これは危ない、と思い、僕は棚の、後ろに、隠したんだ、でも、それ、が、お盆の今、帰ってきて見てたらさ、

すんげえ手前にあんのよ。

お片付けの神が移動させたとしか考えられないのよ。神、絶対捨てるか捨てないか考えるために中開けてるじゃん。そうするってえと、息子の魑魅魍魎が溢れ出すってえ寸法よ。もう全部よ、全部。ゼウスよ。んでもう140文字じゃあこの気持ち抑えきれねえっつうことでブログよ。このブログにGUDAGUDA書いているんだわ。あーーーもういやだーーーー。僕に手紙送った奴は震えて眠れ。

物が捨てられない僕は、この手紙らを一生背負いながら生きていくしかない。せっかくの新居、新築だけど真っ黒な物を入れることになるのだ。これから僕に心のこもった手紙を送るのはなるべく遠慮してほしい。どうしても送りたい場合は数分で溶ける紙に書いてほしい。そしてできることなら、僕の手紙を、誰か、奪い取ってほしい。
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モラトリアムの果て


【この文章は途中で終わっている】

モラトリアムと貶され続けた(特に最後の2年間は)学生生活が終わりを迎えることに焦燥を感じ、一人金沢に赴くことにしたのが2017年3月の半ばである。旅の理由を聞かれると伏し目がちに「自分探しの旅…かな」と自己陶酔をこれでもかと詰め込んだ返事をしていた。しかし言葉に出して言ってみるものである、焦燥は本当に自分探しの旅へと変換されていた。自分探しの旅。本当の自分がどこにいるのか探しに行く、とは一体どういうことなのか。よく意味も分からず、僕はとりあえず家を出た。
結果から書けば、旅の中で自分を探すことはできなかった。ただ「自分探しの旅」という曖昧な言葉に自ら意味を与えることができた旅であった。非常に有意義なものだった。そこでここに旅行中に考えていたことを整理してまとめたい。そこにはもう僕の中で趣味の範疇を超えている映画というコンテンツについても触れている。僕の理解が最も充実しているコンテンツの力を借りて考えを進めた、ということだろうか。ところでブログにして公開しているのは僕の自己顕示欲を満たすためであることを正直に記しておきたい。
青春18きっぷを使って旅行に出た僕は、金沢を発ち、最終宿泊地となる浜松に到着する。荷物を置き、街に繰り出し、適当な居酒屋に入り地酒を注文し飲み始める。途端に、旅が終わってしまうことに寂しさを感じた。この楽しかった旅もいよいよ終わってしまう。しかしその寂しさは0から100に一気に跳ね上がったものではなく、徐々に積み重なっていたものであることに気づいた。しかも旅が始まった直後、最寄駅に着いた時から既に5ほどゲージは溜まっていたのである。この寂しさゲージは何と相関があるのか。ずばり時間である。巻き戻すことのできない、つまり不可逆な存在である時間。旅行は不可逆であるから寂しさを感じるのである。
不可逆性。大の映画好きである僕は、この言葉を聞くと青春映画を想起する。例を挙げたい。青春映画の傑作として推したいのは北野武『あの夏いちばん静かな海』である。二人の男女が二度と戻らない夏を過ごす。鑑賞後は心が猛烈な寂しさに震えるが、その寂しさに美を感じるのである。


もう二度と踏めないであろう土地、二度と味わえないであろう食事、二度と見ることができないであろう景色、それらを消費しながら旅行は終わりに近づいて行くのだ。

【文章はここで終わっている】

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2016年公開の映画61本をランキングにしてみた。


2016年は353本の映画を鑑賞することができました。あと少しで365本でしたが、惜しくも届かず。『ウォーキング・デッド』観たり、PS4買って『ラスト・オブ・アス』や『ウィッチャー3』をやったのが原因でしょう。1日/1本を緩めに目指していたので残念ですが、良い映画にはたくさん出会えたのでよしとしたいです。

公開作品は61本鑑賞できました。あまりお金のことを気にせず、劇場に行ったりレンタルしたのが大きかったのかも。6本に1本は今年公開の映画ということで、このあたりの比率も今後キープしていけたらいいなと思います。

それではランキングです。

1位:『ズートピア』
1位:『シング・ストリート 未来へのうた』
1位:『怒り』
1位:『この世界の片隅に』
5位:『ヒメアノ~ル』
6位:『シン・ゴジラ』
6位:『何者』
8位:『イット・フォローズ』
9位:『イレブン・ミニッツ』
9位:『デッドプール』



悩んだ4作品をまとめて1位にしました。TOP10のうち半分が洋画邦画の比率が半々とのことで、今年は多くの良作邦画に出会えたかと思います。全体的にも邦画が優秀な年でした。

せっかく61本も観たのに『イレブン・ミニッツ』以外は普通なランキングになってしまいました。『貞子 vs 伽椰子』でも10位にぶち込んでウケを狙おうと思ったのですが、やめました。

11位:『アイアムアヒーロー』
12位:『スティーブ・ジョブズ 』
12位:『サウルの息子』
14位:『スポットライト 世紀のスクープ』
14位:『ヘイトフル・エイト』
14位:『レヴェナント 蘇えりし者』
17位:『太陽』
17位:『リップヴァンウィンクルの花嫁』
19位:『ボーダーライン』
19位:『ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー』


ゾンビ映画好きとしては『アイアムアヒーロー』を10位以内に入れたかったのですが、ギリギリ落選。
『スティーブ・ジョブズ』はあまり褒めている人がいない中、僕は大好きだったのでニヤニヤしながら12位にしました。

21位:『貞子 vs 伽椰子』
21位:『エクス・マキナ』
21位:『グランドフィナーレ』
24位:『無伴奏』
24位:『オデッセイ』
26位:『92歳のパリジェンヌ』
26位:『ペレ 伝説の誕生』
26位:『ルーム』
26位:『ロブスター』
26位:『さざなみ』



このあたりも無難なランキングかと。『92歳のパリジェンヌ』『ペレ 伝説の誕生』は公開館数も少なく地味だったので、観ている人も少ないのでは?とても良い映画でした。


31位:『ちはやふる 上の句』
31位:『10 クローバーフィールド・レーン』
31位:『ハドソン川の奇跡』
31位:『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』
31位:『ヴィクトリア』
31位:『蜜のあわれ』
31位:『君の名は。』
31位:『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』
31位:『グッドナイト・マミー』
31位:『ノック・ノック』
31位:『シビル・ウォー キャプテン・アメリカ』
31位:『スクリーム・ガールズ 最後の絶叫』
31位:『COP CAR コップ・カー』
31位:『ジェイソン・ボーン』
31位:『サウスポー』
31位:『64 ロクヨン 前編』
31位:『ライト オフ』



31位は「面白かったけど、甲乙が付けられるほどじゃないな…」という順位です。ファンタビは泣きながら最下位にする未来すらあったので、この順位でよかった。


48位:『64 ロクヨン 後編』
48位:『ザ・ボーイ 人形少年の館』
48位:『ちはやふる 下の句』
48位:『バチカン・テープ』
48位:『ゾンビマックス! 怒りのデス・ゾンビ』
48位:『五日物語 3つの王国と3人の女』
48位:『ZOOMBIE ズーンビ』
48位:『X-MEN アポカリプス』
48位:『レジェンド 狂気の美学』
48位:『神様メール』


31位は「そこそこ面白かったけど、甲乙が付けられるほどじゃないな…」という映画。あんまり映画を否定しないタイプなので、例えば『レジェンド 狂気の美学』がここなのは悲しいです。もうちょっと面白くなればよかったのに。

58位:『ヘイル、シーザー!』
59位:『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』
60位:『テラフォーマーズ』
61位:『スーサイド・スクワッド』



『ヘイル、シーザー!』は昨年の三谷幸喜『ギャラクシー街道』枠です。全く意味がわからずコーエン兄弟を嫌いになりそうです。『テラフォーマーズ』は真正面から破綻していたのに対して、『BvS』『スーサイド・スクワッド』は同じ理由です。DCのヒーロー映画が本格的に嫌いかもしれません。

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高速で移動する新幹線の中で2016年を総括した話


私は大学生になってからというものクリスマスを過ぎないと実家に帰らない。研究が忙しかったり、奇跡的に彼女ができたりした年もあったので、帰れないということもあった。しかしクリスマスにわざわざ無理やり予定を入れ、そうしてわざと12月26日などに帰る年が多い。なぜか、と問われればそれは何とも小っ恥ずかしい話なのだが、簡潔に言えば見栄である。父母や祖父祖母に、元気で大学生活を送っていることをアピールするためだ。「ちょっとクリスマスは予定があってね」そう言えば、男を子に持つ肉親は手を叩いて喜ぶ。正確には喜ぶものだと思っている。ああ私の子も、人様に見せられるようになったのだなあと、母が泣いている様子を思い浮かべるのだ。

今年の12月26日、私は新幹線に乗って神戸の友人に会いに行っていた。一晩泊まって翌27日に岡山へ戻る予定だ。うっかり自由席を取ってしまったがために、うっかり品川から乗ってしまったばっかりに、私は席に座れなかった。普段ならどうってことないが、その日私はどうしても席に座りたかった。それは風邪を引いていたためである。

2016年は体調を崩さない年であった。別件で病院には長らく通っていた時期もあったが、発熱などの症状からではなかった。ミクロで考えれば、それは食生活に起因するはずだ。確かに年の後半はコンビニで食事を用意することが多かれど、サラダを中心とした、しかも価格を気にせずに選んで食していた。だがマクロで考えれば、いかにも古臭い信心深さが滲み出て嫌だが、初詣で一年の健康を祈ったからに違いないと思っている。一年間それほど大それて悪いことはしなかった。人を傷つけなかったか、と問われれば些か自信はないが、それでも今年1年間だけ見れば、私は天国へ行ける。はずだった。

私はクリスマスにやや羽目を外した。具体的な内容は避けるが、かなり刺激的で楽しいクリスマスであった。が、今年一年積み上げた徳が相殺まではいかないまでも、粗いやすりでゴシゴシと削られた気分ではいる。名誉のために書いておくが罪を犯したわけではない。ただ両親には言えない。

空席を探すのを諦め、けだるい体を奮い立たせて自由席の車両と車両の間のスペースに立って、私はぼんやりと外を眺めていた。静岡あたりは田舎だ。田んぼや野原が高速で車窓を横切っていく。その様はまるで、緑が振動して何かを振るい落とすかのようだった。私も高速で移動する新幹線の上に立てば、私を犯す風邪菌や体温、または不道徳をそっくりそのまま静岡に置いていくことができるのではないか。気づけばそんなつまらないことを考えていた。

2017年はいよいよ私が社会に出る。その前に修士論文を出し、大学を出なければならない。私は賢い人間ではないので、社会が諸手を挙げて受け入れてくれるとは考えづらい。持ち前の声の大きさでここまでやって来たところがあるので、社会でそれがどのくらい通用するのかわからないが、しばらくこの大きな声に依存したいところである。それでは足らぬところを補うべく、普段から善行を意識したい。善行は善行として自分に跳ね返ってくることも多いが、今年は健康に跳ね返ってきた。健康を失ったのでは、社会で生きていくのは困難である。来年は一日一善、健康第一を目標に掲げたい。名古屋に到着し、ようやく席につけた私は、鼻を啜りながらそんな目標を立てた。

これをもって2016年の総括とします。
皆さま良いお年を。

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ゲーム『The Last of Us』をやってみて感じたいくつかのこと


はじめに
テレビゲームを禁じられてきた少年時代を経て、その影響かは知らぬが今ではすっかり映画好き、専ら血みどろ映画を興じるようになってしまった。そんな僕が、初めて自宅に置いたテレビゲーム機PS4で初めて起動したゲームがゾンビゲーム『The Last of Us』であったのは、何かの縁かもしれないのである。

映画鑑賞後にはレビューサイトに駄文を投稿し悦に浸るのが常だ。『The Last of Us』クリア後に思わずレビューを書きたくなったが、書き残す場所がないのでこちらのブログに掲載することにする。記事のURLはTwitterで呟くので、大いに拡散していただき、私の自己顕示欲を存分に満たしてほしい。

本ブログではネタバレが全開なので注意していただきたい。

あらすじ
ゾンビが蔓延する世界。20年前に娘を失った男ジョエルは運び屋という裏稼業で生活していた。反政府組織に接近した際、依頼されたのが免疫を持つという少女エリーの移送。初めは気乗りしなかったが、旅の道中で徐々に距離を近づけていく。

屈強な男と少女
主人公と少女との組み合わせではじめに思い出されるのが映画『レオン』であろう。無口な暗殺者は偶然助けた少女と行動を共にすることになる。『レオン』について評するときによく持ち出される表現が「疑似恋愛」。親子ほど年の離れた男女の間に親子愛以外の生まれるのか、である。『The Last of Us』におけるジョエルとエリーの関係は『レオン』と酷似している。

『The Last of Us』で描かれるのは親子愛である。だが、実際に親子ではないため「擬似親子愛」だ。ラストの解釈の先にあるのは親子愛の本質である。ゲームで時系列順に読み取ったことを記していき、ラストシーンについて書いていきたい。

テスとの関係が示すこと
妻とも別れ、最愛の娘を亡くしたジョエルは「愛」を絶った状態にあった。これは仕事仲間であるテスとの関係が明示している。始めエリーの移送に関し、テスは賛成、ジョエルは反対していた。ジョエルの反対の理由は娘を失ったことによる「同年代の少女」への恐怖心であろう。娘とよく似るエリーを見たときから、娘の顔がちらついてしょうがなかったに違いない。

そしてテスの死に対し、ジョエルは任務の遂行を心に決めた。テスのやり残したことを完遂してやる、という気概が感じられる。共闘関係にあり、お互いを尊敬していながらも、決して愛には発展していないのだ。これは映画『マッドマックス FR』のマックスとフィリオサの関係に似る。

ジョエルの成長、そして擬似親子関係
ジョエルはエリーに銃を持たせることを拒んでいたが、途中で銃を渡すことに決める。きっかけは二人に迫るピンチを脱するためであったが、乗り越えた後も没収することはなかった。この時からジョエルはエリーに対して愛を感じるようになっていたように思う。

ここで芽生えたのはジョエルのエリーに対する親としての愛情だ。銃を与えない、という選択はあくまで管理しやすい移送物としての対応であろう。しかし銃を与えたことによって、ジョエルはエリーの成長を促したのだ。親が子に勉強を教えるのと同じである。娘が死んだ時から親としての成長が止まっていたジョエル自身の成長という意味もある。思い出されるのはWDのリックとカールだ。WDで描かれていたのはリックの父親としての成長である。

ジョエルから確かな愛を感じ取っていたエリーは、ジョエルが弟に自分を預けることになると聞いて馬に乗り逃げてしまう。ジョエルからの愛を確認したことで、エリーはジョエルへの愛情を深めていく。一方ジョエルもエリーに命を助けられたことで、より愛情を深めていくのだ。ジョエルの口から自分の娘とエリーを会わせたい、という発言もある。初めは考えられなかったことだ。

ラストシーンの嘘について
さて、ここでラストの展開について簡単にまとめておきたい。反政府組織の残党が研究を続ける病院にエリーを届けたが、エリーの命と引き換えに薬を作ることを知ったジョエルは、病院の人間を全て殺した上でエリーを連れて逃げ出し、弟のところへ戻る。病院で何があったのか聞かれたジョエルは「他にも免疫を持った者がいた」と嘘を付き、ゲームは終わる。

エリーはジョエルの嘘に気づいていたに違いない。だが、それを指摘することはせず、エリーは黙っている。さらにどうやらエリーは今後一生ゾンビ化しない、というわけではないらしい。その証拠にラストシーン直前のエリーの傷口が少し広がっているのが確認できる。しかしエリーはジョエルにそのことを言わない。

二人はお互いに嘘をついて終わるのだ。私はここに二人の親子愛の完成を見たように思う。ここで言及しているのは親子愛もしくは愛そのものは嘘によって構成されている、ということだ。サンタクロースは良い子の元にしかこない、と嘘をつく。親元を離れた子は決してよくない状況にあっても、親には「元気にしているよ」と嘘をつく。これらは親子愛そのものだ。お互いを思いやる上での美しい嘘である。

ゾンビ作品の面白さ
ゾンビが蔓延する世界の中で、ジョエルは明日死ぬかもしれない。さらにエリーの病状が悪化するかもしれない。未来には希望が全く見出せないのだ。そんな中一縷の希望であったエリーの血を使うことをジョエルは親子愛を重んじるあまり拒むのだ。非常に利己的で愚かな行為だが、人間性に溢れている。

ゾンビを題材にした作品が面白い理由は、死して歩く者を題材に人間性を描く逆説性にあると考えている。ジョエルとエリーのあまりに愚かな嘘は、親子愛によって育まれた人間性の結実と言えよう。見事である。

後記
なんの裏付けもしていないので、もしかすると読み誤り、もしくは作者の意図とと反するものがあるかもしれないが、あまり気にしないようにした方が良いというのは映画鑑賞において学んだことである。

それにしても映画鑑賞に比べて、ゲームにすると人物への感情移入がし易いように感じられる。ジョエルやエリーがピンチに陥ると「死なないで!」と心の底から願っている。

ゲーム操作がめちゃくちゃ下手なので、ジョエルは既に何度も死んでいるのはこの際忘れることにしたい。

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